IR法案に関して生きることがすでにギャンブルであることを棚にあげるやつの親の顔が見てみたい
水元英登(みずもと ひでと)
継続課金型コミュニティ設計・管理
昨日(12月2日)のIR法案(カジノを含む統合型リゾート施設の整備を推進する法案)の衆議院内閣委員会での可決のニュースを受けて投稿したこの記事に関連して
面白いタイトルの記事を発見したので、そのことについてお話ししていきます。
その該当記事はこちらです。
「ネットでの自己実現・お金稼ぎ志望」というのは、「ギャンブル依存」と同じ仕組みなのかもしれない。
大変ドキッとするタイトルで一目で「うまいな」と思うものでした。
ただ、中身に関しては前半はまったく私の意見とはかけ離れたものでしたので、その辺りから、上の記事を読まなくてもわかるように説明していきます。
<もくじ>
- まず大前提として日本人はカジノのターゲットではない
- 一度きりの人生で高みを目指すことをギャンブルに例える表現は秀逸
- 生きることがギャンブルであるという自覚のない者に許された生き方にはかなりの制限が課せられる
まず大前提として日本人はカジノのターゲットではない
まだ誤解があるようですが、日本にカジノができたとしても、そのお客さんとして対象となるのは日本人ではありません。
日本のカジノが日本人からお金を吸い上げても、お金が右から左に移動しているようなもので大きなインパクトはありません。
日本国内の限られたお金の争奪戦のゼロサムゲームではなくて、日本国外からお金を入れて総合計を膨らましていく話です。
カジノの狙いは諸外国からいかに外貨を獲得するのかにあるのであって、日本国内のパチンコなどと同列に論じることとはまったく次元の違うものを取り扱っているのだということです。
ですから、日本人がカジノに関してどのような感情を持つのかということについては本質的には問題ではないのです。
同じ階層で配慮することではないんですよね。
もっと言ってしまうと庶民はカジノのターゲットではない
昨日の記事(可決したIR法案とは一番わかりやすく要点だけ聞いてね - みずもん)でもご紹介したようにカジノにはVIPルームという一般の人には立ち入ることが許されないエリアがあります。
ここでは1ゲームあたりの最低掛け金が私たちの想像を絶する金額(例えば、3,000万円など)で、数十秒で数億円が動くような世界です。
数万円の一発勝負で手が震えるような一般の人たちを1万人集客するよりも、世界のVIPを1人呼んだ方がカジノとしては笑いが止まらないわけです。
実際、食事はもちろん、専用機や宿泊施設まですべて無料でVIPをご招待しているといった話は聞きました。
IR(統合型リゾート施設)の売り上げの80%以上がたった5%程度のカジノ施設から生み出されているのと同じように、カジノの売り上げのそのほとんどがVIPから発生しているというわけです。
カジノの中で重視されるのは「公平」であって、「平等」ではありません。
すべてのお客さんに対してカジノは「公平」な扱いをします。決して「不公平」な待遇を受けたという思いは誰にもさせません。
一度きりの人生で高みを目指すことをギャンブルに例える表現は秀逸
さて、私が興味をひかれた記事(「ネットでの自己実現・お金稼ぎ志望」というのは、「ギャンブル依存」と同じ仕組みなのかもしれない。 - いつか電池がきれるまで )の面白い視点は後半にあります。
「個人ブログでPV(ページビュー)稼ぎに邁進し、お金を稼いでいることを猛アピールする人」とか、「高偏差値大学を出て、『自由に生きる』と宣言し、炎上を恐れずに世間を煽りつづける人」って、「褒められることや成功体験に乏しい人が、ふとやってみたギャンブルに勝ってドーパミンがドバッと出る体験をしてしまった」というのに近いのではないか、って思えてくるんですよ。
これにはドキッとした人は多いのではないでしょうか?
確かに、一度きりの人生に高みを目指す人は、ギャンブルの性格の色濃い生き方になります。
生きることがギャンブルであるという自覚のない者に許された生き方にはかなりの制限が課せられる
私は生き物として生きていくことは、ギャンブルだと言ってしまえば全員ギャンブルだと考えています。
何が何でも自分の希望する企業に対して相思相愛で入社できる人はごく一握り。
それに漏れてしまった残りの多くは、得体の知れない企業に対して一生を棒に振る覚悟で飛び込んでいくわけです。
お金よりも大事な自分の将来を捧げる大きな買い物を1ヶ月くらいの就職活動で決める覚悟はすごいと思いませんか。
実際にそこまでの覚悟をしている人はいないと思いますが、それは気づいていないだけです。知らぬが仏。
ギャンブルならばお金が減った時点で勝ち負けを知ることができますが、人生は死ぬ間際になって「あれ?オレの人生って・・・」となるからドラマになるんですよね。
私のギャンブルの線引き
そういう大きな意味での比喩的なギャンブルじゃなくて、狭い意味でのギャンブルの話に戻します。
私の考えるギャンブルの定義とは、お金が支払われなくては続けられないものとしています。
例えば、競馬が好きな人は馬券をかけなくてもレースを見たり競走馬の写真集を見てニヤニヤできます。だから競馬はギャンブルではない。そういう人にとっては。
お金の形をしていない何かを十分得ています。
一方、パチンコは好きだからと言って家にパチンコ台を買ってひたすら回す人はいないのですから、パチンコは明らかなギャンブル。
つまり、お金が欲しくてやっているものはギャンブルです。宝くじはどう考えてもギャンブルです。
ですから、仕事だってやり甲斐を失って、それでもなおそれ以外の道を自分から断ってきてしまったために生活のため辞められないというのなら、その後の人生(お金よりも大事な命=時間)を差し出したギャンブルに参加していることになります。
個人ブログで自ら稼いでいる人は、自分が楽しんでやっていることがうまく行っていてお金が後からついて来ているうちはギャンブルではありません。
お金のために稼がなければ困るという立場になった時点からギャンブルと言っていいでしょう。
本人にとって、それは何なのかが大事なことです。
どんな人生だってリスクを取れない者は小さなリターンの中で納得するしかなくて、何千万だ何億だと資金調達をしてプロジェクトを成功させなければならぬというスタートアップ起業家はリスクを取ったから憧れの的になれるのです。
他人と違うことがリスクなのではありません。これからの時代を生きていくことそのものがリスクです。
工場生産的な価値観が終わってきたこれからの時代に、大事な価値観は普通であることの安定品質による「平等」ではありません。
いかに他人と違っているのかという差異に由来する「公平」の価値観の時代です。
P.S. 最後まで読んでくれてありがとうございます。
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