シンゴジラというプレゼンをどう受け止めるかは自分のアタマで考えよう
水元英登(みずもと ひでと)
継続課金型コミュニティ設計・管理
やっぱり旬の映画「シン・ゴジラ」。以前の感想記事のアクセス数が好調なので、もうちょっと踏み込んでみたいと思います。今回は、ネタバレありです。繰り返します。ネタバレありです。シン・ゴジラを見て、まだまだ語り足りないというあなた!目を通してみてください。
警告:この文章はネタベレを含みます
まず前提として共有しておきたい認識があります。
製品や作品を提出する側より、それについてあれこれ言う側の方が好き勝手できちゃうということです。
提供側は自分の作品という守らなくてはいけないものがあるので、絶対に前線にほころびができてしまうものです。
「落ちない城はない」ということです。なので、作品批判の意図はありません。
シンゴジラから受け取ったメッセージ
脚本も書いた庵野秀明監督が良い例えを自らしてくれていたので、引用したいです。それは、クリエイターとはラーメン屋みたいなものだということです。
僕はよく言ってますが、ラーメン屋といっしょなんですよね。どういうラーメンを食べたいかっていうのはお客さんの自由で、それでも醤油なのか、とんこつなのかぐらいは選んできますけど。その中でこのとんこつの油が濃いかどうかはお客さん次第なんで。ラーメン屋の店主としてはこれぐらいの油が美味いって出すんですけど、それを美味いと感じるか、濃いと感じるか、薄いと感じるかはお客さん次第なんで。それはもう、どうしようもないですね。
今日は私なりに受け取った映画「シン・ゴジラ」が私たちに何をさせたいのかについて語ります。
こちらは、上の動画の中に出てくる「コンテンツの秘密」という本です。Kindleで449円なので買っちゃいました。
シンゴジラからの要求
私は自分の主催のプレゼン大会を通じて、プレゼンについて日々考える身です。
「1プレゼン、1メッセージ」という言葉があります。
文字の通り、1つのプレゼンを通して、1つのメッセージを届けなさいという教えです。
プレゼンの目的とは、プレゼンによって観衆に具体的な行動を “させる” ことです。
自分の要求に賛同させる。自分の商品を買わせる。自分の活動に協力させる。
だから、メッセージは1つじゃないと、観衆は何をしていいのか迷ってしまいます。
私の受け取った「シン・ゴジラ」からのメッセージは、「みんなで協力して日本を建て直そう!」です。
それは単語にすると「団結」だったり「責務」だったりします。
未知の生命体ゴジラは、リアルな外敵であったり災害であったりするわけです。
シンゴジラが私たちに植えつけようとしたもの
「撤退はあり得ない」
2011年。菅政権・東電・福島。あのことを連想せざるを得ませんでした。
「東京で核を使うのか」
それを止めるためならば、何をしたってそれは正義だ。という、何が正解なのかわからない怖さがありました。
解決はないけど、決着がある。これが歴史です。
「増殖」とか「翼が生えるかも」という言い訳はありつつも、いつの間にか敵が核になっていた・・・というか人類のパワーが怪獣の上をいっちゃってるよ。という怖さ。
怪獣を抑えるために、新たな怪獣の出現を許しちゃってる。そんな怖さです。
最初はちゃんとビルを避けて砲撃していたのに、最後は電車をぶつけて爆破したり、ビルを爆破してゴジラを押し倒したりしていましたからね。
場合によっては破壊も正義であるという現実の怖さですよね。
正義とは、時と場合、そして都合によって変わるのです。立場によっても異なりますし。
シンゴジラに突きつけられたもの
ちょっとだけヘソの曲がった私。「そうはいかんぞ」という感想を持ちました。
私だったら、日本をゴジラから守るための作戦なんかに参加しません。
サクッと撤退して、可能な限り逃げます。
ひょっとすると「ドラゴンヘッド」的な人非人のシナリオを用意すると思います。
もうこれからは、国に代表される「何か」に守られて当然とか、何かしてもらえることが当然と考えるのは危険だからです。
もちろん、そのような考えが成り立つのも「愛国心」的なもので一致団結する多くの人の支えがあってこそです。
これが、同じものを見ても、感じるものが違う自由であり、よくできた自然の摂理です。
「シン・ゴジラ」によって突きつけられたもの。それはリテラシーの問いだと言えます。
作中での市民の声は「ゴジラを倒せ!」の不毛な怒号のみの描写だったように記憶しています。